オイディプス王の憂鬱
The Melancholy of Oedipus Rex



~スーパープレミアム 『悪魔が来りて笛を吹く』(2018)~
皆さま、こんにちは。めとろんです。
2018年7月28日(土)21:00~23:00、NHK-BSプレミアムにて、新作ドラマ『スーパープレミアム 悪魔が来りて笛を吹く』が放送されました。
【『悪魔が来りて笛を吹く』の内容をネタばれしている部分があります。原作未読・ドラマ未見の方は、大変申し訳ありませんが、ご遠慮をお願い致します。】
もともと、東映版『悪魔が来りて笛を吹く』(1979)に人一倍思い入れがある僕。
小学生時代、盆と暮れには親戚一同が集まって、賑やかに寝泊りする習慣があり、そこで大人たちに囲まれて観たのが、この作品だったのです。僕にとっての、横溝正史ファースト・インパクトの時期にあたり、その衝撃度は凄まじいものがありました。
終盤は、親戚の大人たちの間に、かなり気まずい雰囲気が満ち満ちた展開でしたが(笑)恐怖に慄きながらも目を離せず、夢中で最後まで見届けた記憶が残っています。加えて、故・山本邦山氏と、今井裕氏が手がけた哀歓漂う忘れがたいオリジナル・サウンドトラックは長らく、僕の愛聴盤です。

「水子地蔵」に象徴される、少々直裁的に過ぎるメタファーに犯人設定の変更等、後々になって違和感のある要素に気づいたのも事実です。
中学時代には、恐る恐る原作を読み、あの暗澹たる印象を追体験しました。

さらに僕は、横溝正史氏のエッセイ『真説・金田一耕助』(角川文庫)の「私のベスト10」の項の、「私はこの小説(筆者註・『悪魔が来りて笛を吹く』)のなかの「金田一耕助西へ行く」から「淡路島山」という章あたりが好きである。これは中島河太郎も指摘しているとおり、筋だけを追う読者にはまどろこしいかもしれないけれど、あわてず騒がず、悠々と筆を進めているところが、われながらあっぱれである。」との文章に感銘を受け、いまだにミステリ作品の、謎を追っての悠々たる探索行が大好きなのです。
さて、横溝正史シリーズⅠ版、名探偵・金田一耕助シリーズ版、鶴太郎版、稲垣版と観てきて、今回のスーパープレミアム、吉岡秀隆版の鑑賞と相成りました。
まずは、冒頭に鳴り響く、僕も好きなポーティスヘッドの「Cowboys」。この曲における主人公の女性が、決して怨みを晴らさずにはおかぬ…という執念が、僕には感じられる陰鬱なサウンドと歌詞です。
This day will be their damnedest day
Oh, if you take these things from me

そして、「悪魔ここに誕生す」と書かれた石灯籠の前に佇む金田一耕助。そそり立つ大きな樹の原初的シルエットは、男性器の象徴を匂わせ、さらに「生命の樹」から男女の”原罪”のイメージへと連想を促しているように思われます。

僕も欠かさず観ていた連続テレビ小説『あまちゃん』や、『サラリーマンNEO』の吉田照幸氏は、前半の等々力警部(池田成志)と金田一の絡みに少々のコミカルな味を残すも、その得意分野はぼぼ封印し、ひじょうに抑制の効いたタッチで、この重厚なドラマを演出されています。

そして、僕はドラマを観ていくなかで、前回の戦争によるPTSDに苦しむ長谷川金田一とは似ても似つかない、吉岡秀隆さん演じる金田一耕助のキャラクターについて、考えを巡らせていました。
吉岡氏が醸す、この無垢で透明な童貞感は、長谷川氏では到底出ないもので、椿邸に集う魑魅魍魎の人々と、毒々しいインモラルな事件とのコントラストから言っても、申し分のないバランスであると感じました。そういった意味では、前回の『獄門島』と共通した脚本・喜安浩平氏と演出・吉田照幸氏は、謂わば毎回、「一回限りの特別公演」として、原作ごとに、それに見合った独立した世界観とキャラクター構築を行っていくコンセプトのようであり、その舞台公演的発想は、舞台人としても活躍されている喜安氏ならではかも知れない…とも思い、大変に面白いと感じました。
さて、このドラマでは、椿英輔子爵(益岡徹)の遺書が挟まれていた一書を、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの『ヴィルヘイム・マイスターの修行時代』とはしていない点に、驚きました。そして、今回のドラマ独自の解釈として選ぶならば、この一書とは、古代ギリシャの詩人、ソポクレスの『オイディプス王』ではないかと想像を巡らしたのです。

古代ギリシャ悲劇の傑作『オイディプス王』とは、テーバイの王となったオイディプスは、長年続く疫病と不作の原因を、先王ラーイオス殺害の穢れの為であるとの神託を受け、犯人を捜す。
彼は、盲目の預言者テイレシアースに犯人を尋ねるが、知っているのに答えない。そこで、オイディプスは弟クレオーンがテイレシアースと結託して偽の予言を行っているのではないかと弟を疑い、険悪なやり取りとなるも、妻イオカステーが宥め治める。
昔、先王ラーイオスと当時、その妻だったイオカステーは、もし子を授かればその子が父ラーイオスを殺すとの神託を受けたが、先王は結局、森の三叉路で誰かに殺されたのだ。

オイディプス王は愕然とする。何故ならかつて、その三叉路で彼は人を殺したことがあったのだ。
ラーイオス王が死んだ時側にいた従者がオイディプスのもとに現れる。従者は、オイディプスが幼き頃、彼を山に捨てた人物でもあった。
つまり、オイディプスはラーイオス王とイオスカテーの子であり、彼は神託の通り実の父を(知らずに)殺し、実の母イオスカテーと(知らずに)通じ子を設けてしまったのである。
時既に遅し、イオスカテーは真実を知り縊れて自殺する。オイディプスは自ら両目を刺し、盲いとなり、クレオーンに自分を追放するように嘆願するのであった。

今回の『悪魔が来りて笛を吹く』では、犯人・三島東太郎(中村蒼)が、自らの出自をしらぬまま犯行に及んでいた…との、独自の設定があります。それは、この古典中の古典、「エディプス・コンプレックス」の発祥でもある『オイディプス王』の設定に倣い、さらに近づけたのであろうと解釈しました。
最終盤、犯人が自らの実の母を椿秝子(筒井真理子)と知り、対峙するシーンで、驚くべきことに、ジョン・レノンの「Mother」が響き渡ります。
Mother, you had me but I never had you
I wanted you, you didn't want me
So I, I just got to tell you
Goodbye, goodbye
ジョンがプライマルスクリーム療法を受けて書いたという詩…自らを求めてくれなかった母と…そして、父に対する憎しみと…それと葛藤する、それ以上の愛情と悲しみが横溢した曲です。
最後の最後で、神から下される運命に従い、自ら両目を刺すオイディプスに対して、この作品の三島東太郎は、自らを罰する次元ではもう解消できない憤りを爆発させます。

大人になり散々傷ついてから、母から胎内回帰を促される不条理…その母に返す刃、それは、エディプス・コンプレックスの裏返しの衝動…とも解せましょうか。少なくとも、『オイディプス王』の結論を潔しとせず、運命に抗い忍従しない姿勢…このパンキッシュな欲求こそ、このスタッフ製作の金田一シリーズの真骨頂であると、そう思います。
そして、石坂浩二さんの『金田一です。』(角川書店)に採録されていた「金田一耕助は、やはりコロスなのだ」を想起します。

「つまり金田一耕助はコロスなのです。中央で展開される破局へと突っ走る悲劇を、悩み悲しみながらも最後まで見届けるコロス。舞台の中央へは登場することのないコロス。犬神家の一族の、金田一耕助はコロスだといえると思うのです。探偵こそは自ら犯人にならない限りは、主人公にはなれない運命を背負っているのです。だからこそ彼等は、なぜかためらいと淋しさの微笑みを感じさせてくれるのでしょう。」(同書・P42)
この印象的な一文を読んでから、「そうかー、金田一はコロスかー」と単純に思い込んでいたのですが、このドラマにおいては、すべてを見通しているコロスではなく、「最後に盲目となる」オイディプスと同じく、盲目である「預言者テイレシアス」こそ、彼ではないか…と考えました。
このドラマのテーマとも言うべき「人は、すべてを知ったつもりで真実を見失う」。
三島東太郎は、真実がそこにありながら「見えない」オイディプスであり、また最後まで(神託を告げた)椿英輔の曲「悪魔が来りて笛を吹く」の秘密を見抜けなかった…金田一耕助もまた「盲目」であったのです。
そして、ラストに鳴り響くジェフ・バックリィの「Hallelujah」。
I’ve heard there was a secret chord
That David played and it pleased the Lord
But you don’t really care for music, do you?
Well it goes like this:
The fourth, the fifth, the minor fall and the major lift
The baffled king composing Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah

ダビデ王が奏でた、主を祝福し、讃える歌…そして、”秘密のコード”。
…それは、このドラマ全体を通してみれば、最大の皮肉であるとも思われ…(笑)、しかし、死者を鎮魂し、罪深き人々を温かく包み、見つめゆくコーダでもありましょう。
◆最後に。このドラマを観終わって、想起する映画がひとつ。

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本による『アポロンの地獄 Edipo re』(1967年)です。『オイディプス王』の、独自の解釈による、自伝的映画化であり、映画の冒頭と終幕が、現代(当時)を舞台として描かれる、実験的手法が特徴です。
今回のNHK版『悪魔が来りて笛を吹く』は、当時の華族(特権階級)の腐敗とも相通じ合う格差拡大の傾向や、スキャンダルが発生した途端掌を返し袋叩きにするネットの風潮や、性暴力、ドメスティック・バイオレンス等、現代の諸問題と相通じ合う、高いシンクロ率を有しており、古代ギリシャと現代が、作者の「個」を通してつながる、『アポロンの地獄』を思わせたのです。
そして、本作品のラストでオイディプスが、ひたすら吹く縦笛…、その姿に、本ドラマの「悪魔」に思いを致さずにはおれないのです。…
それでは、また!
《参考文献》
『オイディプス王』(古典新訳文庫)ソポクレス 著・河合祥一郎 訳 光文社
『真説 金田一耕助』横溝正史 角川文庫
『金田一です。』石坂浩二 角川書店
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しかし個人的には原作からあまり逸脱した映像化は好みではありません。その意味では前作『獄門島』はラストの金田一の咆哮以外は原作に忠実で、やっとあの名作に相応しい映像化が成されたと嬉しかった。規範や教養が軽視される時代に鬱屈を覚える日常だからこそ大袈裟でなく、その想いを強くします。原作を愛するが故にこれまで一度も忠実に映像化されていない『悪魔が来りて笛を吹く』のそれが、今回も叶わなかったのが残念です。
次作が『八つ墓村』だとすれば、さらに奔放な解釈が施されそうですが、怖いもの見たさで楽しみな気もします(笑)
うーん、多分ハヤシさまと僕の感想は、ほぼ近いと思うのですよね♪ このドラマの鑑賞は、当初ひじょうに、辛苦重い体験ではありました。でも、何度か観直すうちに、その情報量を細かく享受し、それぞれのキャラクターに愛情すら感じることができました。…しかし、その先鋭的な解釈や演出は、現代社会に斬り込んでいるが故に、観る側も、決して無傷ではいられないのです。そんな解釈で、また新たなる挑戦的な作品群をも、新たな視点で迎え入れていきたい。そう思うのです(^^)
>ハヤシさん
>
>このドラマ、録画して三回ほど見ました。配役、演出、音楽には概ね満足したものの、犯人の設定改変がプロットの整合性を損ない、いたずらに劇的効果を狙ったものとしか感じられず、そこが不満だったのですが、めとろんさんの解釈を読み、脚色者の意図が納得出来ました。
>しかし個人的には原作からあまり逸脱した映像化は好みではありません。その意味では前作『獄門島』はラストの金田一の咆哮以外は原作に忠実で、やっとあの名作に相応しい映像化が成されたと嬉しかった。規範や教養が軽視される時代に鬱屈を覚える日常だからこそ大袈裟でなく、その想いを強くします。原作を愛するが故にこれまで一度も忠実に映像化されていない『悪魔が来りて笛を吹く』のそれが、今回も叶わなかったのが残念です。
>次作が『八つ墓村』だとすれば、さらに奔放な解釈が施されそうですが、怖いもの見たさで楽しみな気もします(笑)
>
そう、懐かしい名前の連打がこの「めとLOG〜ミステリー映画の世界」なのです。(笑)
まあ、何とも嬉しいコメントをありがとうございます。またのお越しを、お待ちしております♪
>MAQさん
>
>このごろテレビで長いものを見ることをあまりしなくなったので、危ういところでしたが、幸いこれは見ていました。おかげで、たいへん楽しく読ませていただくことができました。とくに『オイディプス王』への連想には膝連打。そしてパゾリーニとは……懐かしい名前の突然の驚きましたが、言われてみればたしかに奇妙なまでのシンクロぶり。とても面白く、魅力的なご指摘だと思いました。