悪魔の手毬唄 ~年末にTVドラマを観たこと、つれづれ諸々に思うこと。~

悪魔の手毬唄、雑感。

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~年末にTVドラマを観たこと、つれづれ諸々に思うこと。~

 皆様、こんにちは。
 めとろんです。

 この記事は、ちょっと変則的な道筋で作成されています。
 まず、2009年1月5日(月)、フジテレビ系で放送された、稲垣吾郎主演の『悪魔の手毬唄』に関しての感想を、1月8日、ブログにアップ。
 それを今回、単独記事として、13年後にあたる2022年6月26日(日)、増補して再度アップした…というわけです。

 そういった意味ではまとまりは乏しいのですが…(汗)ブログを初めて16年、この作品に関しては、「思いつき『悪魔の手毬唄』考」という小文が、このブログ自体のスタートのきっかけになったこともあり、個人的にも大変、思い入れ深いのです。
 自分自身の感想の変遷を、ここに残しておくのも悪くないと思い、ここに置く次第です。
 少々、お付き合いください。

 ※尚、コメント欄に関しては、2009年当時の懐かしき方々の発言を、そのまま残しておきたいと思います。


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◇『悪魔の手毬唄』
1月5日(月)21:00~23:33 フジテレビ

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 稲垣吾郎氏が名探偵・金田一耕助扮するフジテレビのドラマ・シリーズ第五弾。
 このシリーズでは、第二弾の『八つ墓村』がこの原作としては史上最高という傑作で、毎回期待しているのですが、2年前の『悪魔が来りて笛を吹く』が低調だった為、今回も期待と不安が入り混じっていたのですが、鑑賞後、複雑な想いが交錯していることを、告白しておきます。

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 当初のキャストに関する不安(かたせ梨乃さん、山田優さんなど)は、正直それほどでも無かったのですが、青池歌名雄役の平岡祐太という俳優さん…今回初見ですけれど、若干、ミス・キャストに感じました。
 これは登場人物全員に言えるのですが、キャラクターがステロ・タイプで、まったく人間としての生々しさが感じられないのです。確かに多すぎる登場人物を捌くのは大変だとは思いますが、特に前半の「青い山脈」合唱の演出などの奇矯な手法(また、音響にエフェクトをかけて現実感を希薄にしている)の多用は実験的試みとしては面白くても、正直個々のドラマを描くことを放棄しているようにも感じました。
 言ってみれば『金田一少年の事件簿』を思わせる、雰囲気重視、スピード重視の"現代風の映像"を目指した…ということなのでしょう。
 そのあたりは、鑑賞者によって好みが分かれるところでしょうが、必要最小限の説明は、あった方が良かったように思います。

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 僕が、ドラマ自体の構造、そして映像的にも、似通った印象を受けたのは、ロビン・ハーディ監督、アンソニー・シェーファー脚本の『ウィッカーマン』('73)でありました。

 原始宗教が支配するサマーアイル島へ、行方不明の少女を救いにやってくる厳格なキリスト教徒の警察官を描いたこのイギリス映画は、舞台を現実世界とは切り離された「異世界」として描いており、今回の『悪魔の手毬唄』での、非現実的な鬼首村の描き方に、強い近似性を感じるのです。
 稲垣吾郎さん扮する金田一耕助のキャラクターは昭和30年の風俗など一切感じられない現代人であり、彼が踏み込む鬼首村は一種のファンタジー的な「異世界」として捉えられているようです。そのためか、仁礼家・由良家と「亀の湯」の距離関係など一切触れられることもなく、美しいのは間違いないものの、どこかふわふわと現実感の伴わない世界で「痛みのない」犯罪が繰り広げられていくのです。

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 この辺りに、

①原作発表当時の"封建的旧社会へ「知性・論理」で斬り込む民主主義社会の使者・金田一耕助”的な構図
②横溝ブーム当時のディスカバー・ジャパン的"旧世界への回帰"
③現実との繋がりを失ったイメージ的な疑似過去・ファンタジー世界への逃避


 …という、横溝作品への需要する側の変遷、といったものも読み取れるような気がします。

 この「異世界」との橋渡し役が本来、"ワンダーランド"岡山県のネイティブ磯川警部であるはずなのですが、今回はシリーズのレギュラーである橘署長(塩見三省さん。好きなのですが)にその役割をアテている為、ドラマの構造そのものが中途半端になり、ラストの感動も犠牲になったように思えます。それは磯川警部のように、橘署長が"現場に残る人間"ではないことに起因します。
 どこまでも、彼は"金田一側の人間"であり、「異界の住人」ではないからです。

 優れていると思った点としては、「鬼首村手毬唄」の披露場面やその三番を巡るサスペンス醸造、そして真相を推理する金田一の描写などが挙げられます。このシリーズは、概して"推理部分"の描写が丁寧で、好感が持てるところです。

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 また、否定的意見の多い"犯人像の変更"に関しては、僕は脚本家・佐藤嗣麻子さんの、女性としての"市川作品へのアンチテーゼ"であると受けとめました。
 原作ではなく市川版『手毬唄』と全く同じ台詞がそこかしこに登場することからしても、製作する側は常にリスペクトし、かつ意識せざるを得ない存在であることは間違いないようです。市川版との「間合い」をいかにとるか―その選択の一つが、この描き方に繋がったのではないか…と思います。ただ、その動機の描き方にリアリティは感じられても、青池里子の死との繋がりにおいて余りに後味が悪く、(特にかたせ梨乃さんの演技も含め)あまりに露悪的に感じられ、違和感を覚えました。
 しかし、佐藤さんが、綺麗事のメロドラマを否定し、真っ正直にリアルな心理劇としての結末を指向した…とも思えました。
 大変に興味深い、『悪魔の手毬唄』へのひとつの解釈として、今は受け止めています。



 …さて、次に、2021年、松井和翠氏のお誘いで、『非実在探偵小説研究会』弐拾弐號「和翠の図書館 第三回 「脚本・シナリオ編」座談会に参加させて頂いた際の、『悪魔の手毬唄』('77)に対する、ほぼ現在の観点を、ここに記してこの稿を終わりたいと思います。


悪魔の手毬唄('77)

市川崑・監督
久里子亭・脚本


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 かなりの野心作…と、今にして、思う。

 膨大な登場人物と、複雑な人間関係。
 それらが過不足なく配置され、スムーズに流れているかに見える…が、各シークエンスにひときわ印象的な「絵」が残されるが、それらはパズルの如く、幾何学的に組み上げられた伽藍。断片的イメージの見事な集積である。…というか、どの映画も、まさにそうして出来上がってはいるのだが…映画を意識して見返してみると、登場人物たちの背景や、生活感のある日常は、悉く簡略化され、事件に関係ある事柄以外、ほぼ画面には現れない。

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 また、各シークエンスの連続性も思ったより希薄なのだが、自然と観る側が補うようなイメージ醸造が行われているのである。
(老婆の影のショック・シーンなども、それ自体にほぼ意味はないのだが、流れの中に巧妙に組み込まれている)

 青池リカや、ほかの登場人物一人ひとりも、画面上に現れている時間は格段に少ないのだが、各シーンの強烈な印象から、そうは思われないように組み上げられているのである。ラスト・シーンで表出する、磯川警部の青池リカへの想いも、それまで具体的な描写も台詞も数少ないのだが、観客の想像力のなかに強烈に立ち上がるのだ。
 犯人の動機も明確に語られることはなく、すべては観客の心のなかに、イメージの集積の先に、その像を結ぶのである。

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 誠に技巧の極地、実験作と考える所以である。
 マニエリスムの極地、という意味では、原作とも不思議と呼応した映像化作品であると思う。

 
 

 …大横溝の、「マニエリスムの極致」、『悪魔の手毬唄』。

 今後も、何度も読み返し、思索することになるのでしょう。

 それでは、また。



この記事へのコメント

  • イエローストーン

    めとろんさん、こんばんは。

    今年もどうか、よろしくお願い致します。

    「手毬唄」に関してのみコメントをいれさせていただきます。

    とても残念な仕上がりでしたね。
    私はキャストを知った段階で、怒りと失望が頂点に達し、磯川警部がでてこない段階であきらめてましたので、逆にあたたかい目でみようと心がけたのですが、やはり画に集中できませんでした。

    これはおっしゃる通り、青年団の合唱などの演出の影響も大きくありました。
    また、横溝作品への需要の変遷、その辺りを意識しての製作は、私は不必要だとおもうんですよね。
    やはりその時代を描き、本作では古い山奥の村の勢力図、由良家と仁礼家の関係などを描いてこそ、金田一耕助の登場が生きるとおもうのですがね。

    たしかに市川版を意識し、リスペクトはしているのでしょうが、う~ん、むずかしいところですかね~。
    同じにはできないでしょうが、無理に変えるとどうしても勝てないという・・・。

    ただ、原作は、リカは事件に関して何もかたることなくこの世をさってしまいますから、金田一の推理が全てで、真相という部分では映像化するときに脚本家次第に描けるということはあると思いますが・・・。

    しかし、やはり金田一ものは時代背景をきちんと描き、原作にはないかもしれませんが、その独特の雰囲気をだすことがこれら田舎での長編を映像化するには必要不可欠だと私は感じます。

    市川版は、人食い沼をうまく関連づけ、リカの最期にもうまくむすびつけています。そして、以前記事にもしましたが、グラマーガールを素朴な人物にえがくことでその村の雰囲気を守ったのではないかと想像しています。

    やはり、私は金田一が無意味にマントを風になびかせたり、その他の点においても違和感を感じる部分は今回も含めこの稲垣版に感じるのは否めません。

    ただ、仰る通り「八つ墓村」の出来が、本がよかったですからね~。
    「悪魔が来たりて」もよかったのですが、ちょっと物足りなく、今回も頑張ったとは思いますが、非常に残念な内容でした。

    私は近いうちに、市川版を見直してしまうと思います。


    あっ、それと非常に細かなことですが、原作は「民間承伝」だったんですね。市川版が常に頭にある私は原作をよんでいても気づきませんでした。

    では、また。
    2009年01月08日 23:02
  • めとろん

    イエロー・ストーン様、いらっしゃいませ。
    明けましておめでとうございます!

    >とても残念な仕上がりでしたね。

    まさに、そうでした。記事では触れませんでしたが、そもそも吾郎ちゃん=金田一ってどうよ、という根本的な部分が…。正直、『八つ墓村』などでは(主役は辰弥ですし)それほど気にならなかったのです。
    でも今回のドラマ『手毬唄』などは金田一耕助の視点で物語がスタートしていますので、いわば"金田一耕助自身の事件"という側面が生まれていまい、その貧弱な存在感が浮き彫りになってしまったような気がします。(稲垣さん自身というよりはキャスティング、演出の問題ですが)
    そういった意味では「歌名雄と泰子のシーン」から始め、あくまで「鬼首村の人々のドラマ」であることを観客に印象づけた市川版の老獪さはやはり見事であったと実感します。

    >やはりその時代を描き、本作では古い山奥の村の勢力図、由良家と仁礼家の関係などを描いてこそ、金田一耕助の登場が生きるとおもうのですがね。

    まったく同感です。このドラマは23年前の恩田幾三の事件のみ、ミステリーとしての整合性を持たせ、S30年の事件はファンタジーとして処理してしまった印象を受けます。ですから、"枡や漏斗"などの奇怪な判じ物がその世界に溶け込んでしまい、あまりインパクトが感じられませんでした。

    >やはり、私は金田一が無意味にマントを風になびかせたり、その他の点においても違和感を感じる部分は今回も含めこの稲垣版に感じるのは否めません。

    これも同感です。記事で"雰囲気重視"等と書いたのは、この意味に他なりません。

    作品の構造的にも、磯川警部を何故出せなかったのか?…は本当に不可解です。市川版でも、加藤武=立花主任がいても、あえて若山富三郎の磯川警部を配していたのですから、できないことはなかったと思われるのですが…。かえすがえすも残念でした。

    それでは、今年もよろしくお願い致します!

    2009年01月09日 07:35
  • イエローストーン

    めとろんさん、こんばんは。

    >作品の構造的にも、磯川警部を何故出せなかったのか?…は本当に不可解です。

    まさに同感です。
    前作の「悪魔が来たりて」で磯川警部の存在をしめしていたので、期待していたのですが・・・。

    この「手毬唄」は、事件を解決するのは金田一で、仰るとおり鬼首村の人々の話ですが、金田一を呼び寄せたのは磯川警部で、彼の想いが事件を解決させたわけで、彼の話でもあるんですよね。

    この重要な側面を描かないのはやはり残念です。

    しかし、昨日はコメント入れ忘れましたが、やはりめとろんさんは深い視点でストーリーをご覧になってますね。
    いつもながら感心し、感銘を受けます。

    では、また。

    2009年01月09日 18:46
  • すぅ

    拙いコメントにご返信コメントありがとうございました!嬉しかったです!

    今回は深く 深く ドラマについて語って頂き、いつもボーッと見ている私は恥ずかしい限りです。本当に考えされられました。
    以前に放送・放映された金田一シリーズをみてみたいと思います!

    そして恥ずかしながら、今まで「金田一シリーズ」を読んだ事がないので、これからドップリと横溝ワールドに浸りたいと思います!
    何度もお邪魔してすみませんでした!
    2009年01月10日 23:40
  • めとろん

    ★イエローストーン様

    コメントありがとうございます!磯川警部、カムバック!…と思う今日この頃ですが、あの存在感を出せる俳優が今いるのか…という部分も、難しい問題かも知れませんね。ありがとうございました!

    ★すぅ様

    いえいえ、こちらこそ、本当にありがとうございます!
    これを機会に、もし横溝ワールドに浸られるのでしたら、これほど嬉しいことはありません!こんな若輩の身でありながら、横溝先生に少しでも恩返しできた気持ちです。
    ぜひ、謎に満ち闇深く、実は温かい横溝ワールドを堪能して下さい。今から体験されるすぅ様が羨ましい限りです。
    本当に、ありがとうございまいた!また、いらして下さいね。
    お待ちしております。
    2009年01月14日 02:58
  • ブタネコ

    めとろんさん おはようございます。

    >"犯人像の変更"に関しては、僕は脚本家・佐藤嗣麻子さんの、女性としての"市川作品へのアンチテーゼ"であると受けとめました。

    なるほど、そういう受け止め方をされましたか…

    めとろんさんは優しいなぁ…^^

    私にはそういう風に優しく受け止める気持ちには全くなれないぐらいに激怒して見てました。^^

    2009年01月14日 08:42
  • めとろん

    いらっしゃいませ!ブタネコ様。

    そんな、温かいお言葉ありがとうございます。
    ブタネコ様が怒られるのも最もです。僕も、もう再見はしないと思います。また同時に、改めて横溝作品の奥深さ、映像化の難しさも痛感致しました。
    ぜひ、またいらして下さい。お待ちしております!
    2009年01月14日 18:17
  • よーくろ

    こんばんは。放送からかなり時間が経ってしまいましたが、(『オッカムの剃刀』については前に書きましたので)『悪魔の手毬唄』で思った事を少々…。
    人物の描き込みが充分で無いのは私も感じました。特に里子に関してはもう少し描いて欲しかったです。『青い山脈』は原作にあるのでしょうか?あれはいらないからもうちょっと…と思います。
    その一方で、妙に陰口や罵倒(ゆかり=千恵子や文子に対する)が目立つと言うか、焼き付くみたいな感じもありました。特に歌名雄が文子を「父(てて)無し児(ご)」と言ったのにはショックでした(原作通りだったようですが)。他の同原作作品での歌名雄はもうちょっと好青年だった気がしましたので。
    まぁそれでも(私的には大外れだった)前作『悪魔が来りて笛を吹く』よりはましだったかな、と。

    最後に余談を二つほど。
    1.冒頭の横溝先生と耕助とのやりとり(が『手毬唄』事件へと連なる事)が、スタッフからの「『獄門島』はやりませんよ宣言」に思えてしまうのは私だけでしょうか?
    2.歌名雄役の平岡さんと『オッカム』の柳田教授役の草刈さんが『キイナ~不可能犯罪捜査官~』で共演しているのは…偶然?

    …失礼致しました。
    2009年02月21日 00:32
  • めとろん

    よーくろ様、コメントありがとうございます!

    そうですね、『悪魔が来りて笛を吹く』…どっこい、でしょうか(笑)
    でも、原作はどこへやら、のTBSのサスペンス劇場のものよりは遥かに原作に忠実なんですよね。TBSでは、私のお気に入りの『車井戸は何故軋る』が見るも無残なドラマになってしまって…。悲しかったです。

    『キイナ』…そうでしたか!恥ずかしながら未見ですが、ぜひ見てみたいと思います。貴重な情報、ありがとうございました!
    2009年02月22日 16:37

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